【私がPMJ倶楽部を作ったワケ③・全3話】タニシの人生シリーズ~若いママの孤立をなくしたくて始めた家族ぐるみの子育て~

【大切な子供や孫が生きていく世界は、今の私たちが創っている】
このことが、私の責任感を駆り立てる要因なのだと思う。
いつでも人は、昔は良かった…という。
子供や、孫たちにも、そう言わせてあげたいものです。

この先は、私が実際にした経験をもとに、感じたこと、思ったことを書いています。
読んでいて、辛くなってしまう方がいたら、ごめんなさいm(__)m
途中で離脱してくださいね。

第3話『私がいじめられた経験から得たもの』

【勝手に切り取るメディア】

兄が、恥ずかしいと言ったのも理解できる。
私の言う、ヤングママではなく、ヤンキーママの方が、圧倒的に話題になるからだ。

PMJ倶楽部のメンバーに金髪の子はいなかったし、たまたま若いうちに子供を授かっただけ。
メディアからの出演依頼にも、PMJ倶楽部の趣旨をきちんと伝えてくれるモノにしか出なかった。
それでも、『ヤンママ』は独り歩きを始めてしまった。

ただ、今みたいなネット社会ではなかった分、まだマシだったのかもしれない。
もし、あの時、プライバシーがネットに晒されていたら…と思うとゾッとする。

生放送のラジオに出演した時、局の手違いで私の家の電話番号が電波に流れた。
すぐに、電話回線を止めたが、翌日に復旧させても、問題なかったくらいだから(笑)

【いじめられた経験から得たもの】


わたしは、幼い頃から泣かされる側だった。今では想像できないくらい(笑)
記憶の最初は、2~3歳の頃、1つ年下の従妹だった。

母に『年上なんだから我慢しなさい』と言われ、
従妹にやられ放題で、よく泣かされていた。

幼稚園でも、揶揄しやすい苗字と名前のせいで、ずっと男の子に泣かされていた。
小学校に上がっても、夏休み明けの『日焼けコンテスト』で上位に入ると、あだ名が差別用語になった。

3年生の時、我慢の限界で、給食の途中で家に泣きながら帰った。
先生に連れてこられたいじめっ子は、その場では謝ったものの、
次の日からは、私の家が古かった事をネタに、いじめが続いた。

【人生の転機】

4年生の時、天の助けか、いじめっ子の住む地域と学区が分かれることになり、顔を合わせずに済むようになった。
そのクラス替えで、担任やクラスメイトに恵まれ、やっと、学校でのいじめからは解放された。
その担任から、大人から初めて本気で褒められた、という記憶がある。
きっと、初めてではないと思うが(笑)

その先生のおかげで、前向きになれたのが大きかった。
イジメられない為には、面白い子になれば良いんだ!という学習をする(笑)

中学に入ると、4学区が集まり、あのイジメっ子と再会した。
でも、もう怖くなかった。
離れていた3年の時間が、わたしを強くしてくれたのだと思った。

私をいじめていた彼は、なぜかイジメられる側になっていた。
でも私は、仕返しをするのではなく、他の子とおなじように接するように心掛けた。
同情していたのかもしれないが、自分が嫌だったことは、他人にしたくなかった。

中学で陸上部、野球部マネージャーを経験し、楽しかった…

のも、つかの間(笑)
3年で転校した学校で、史上最悪のイジメを経験することになる。

【次回予告】

【環境が人を変える】タニシの子育てシリーズ
~いじめられてる私が同情する、いじめっこ達~
『3年女子全員が敵になったのは誰のせい?』   です。

お楽しみに🎵

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【私がPMJ倶楽部を作ったワケ②・全3話】タニシの人生シリーズ~若いママの孤立をなくしたくて始めた家族ぐるみの子育て~

夕焼け空の下、仲間と一緒に過ごす子どもたちのシルエット写真

この記事は、私が若い頃に立ち上げた、育児サークル『PMJ倶楽部』の記録です。
あれから、時代は変わりました。でも、子供たちの未来を思う気持ちは、今も同じです。
誰かの、何かの、きっかけになってくれたら、嬉しいです。

この先は、私が実際にした経験をもとに、感じたこと、思ったことを書いています。
読んでいて、辛くなってしまう方がいたら、ごめんなさいm(__)m
途中で離脱してくださいね。

『第2話 理解されない子供と勘違いする大人

サークルの子供たちを見ていて感じたこと~自我の芽生え

子供たち(およそ1歳~)はオモチャの奪い合いを必ずする。
それは、本能として備わっているのだろうか?
動物の優位争いに似ていると感じた。

大して興味の無いオモチャでも、その子に力を見せつけるかのように奪う。
泣いたら負けだ。
そのやりとりで『力関係』が決まる。
群れをつくる動物が、ボスを決めるように。

その時に、大人は手出しをせず見守ることが大切だと感じた。
へたに叱ろうものなら、その子は親の見えない所で、隠れて弱い子をいじめるようになってしまう。
決着がついたら、そこで初めて、両者の親が弱者をいたわる様子をみせる。
(決着とは、片方が泣いたり、逃げた時)
そうすることで、親を取られたような気がするのか、泣き出す強者もいれば、一緒に弱者をいたわる強者もいる。

このやり取りを何度も見ているうちに、
私は「親の役目」が少しずつ分かってきた。

【親の役目】

バトルが始まった時に大事なのは、このルール。
・武器を持たせない事。
・必ず、大人が子供を見守っている事。
・そして、途中で親が止めに入らない事。
・決着がついたら、弱者をいたわる事。
・弱者をいたわる時に、強者を悪者にしない事。

これを徹底していると、自然と仲良く遊びだすから不思議だ。
強者は弱者をかばい、弱者は強者を敬い、後を追う。

言っておかなければならないが、この話しは安易な差別ではなく、
千差万別な人間同士、どうしても避けられない力の差がある。
それをどう上手く、仲よく生きていこうかと、世に出たばかりの人間が学んでいる現実だ。
世の中の仕組みを子供が体現しているのだと思う。

なるべくこの体験を、ちからが弱いうちに経験させないと、後でとんでもないことになる。
遊びを知らずに大人になった者が、いい年をして遊びに狂ってしまうのと同じだ。
第二次反抗期や、大人になってから親に手を挙げてみたり、暴力事件を起こしたり。
その頃にはもう、親は『ちから』では子供に敵わない。

だから小さく、力の弱いうちに、ちから加減を教える。また、他者をいたわる事を教える。

【叩かれたら痛い】

【髪を引っ張られると、こんなに痛い】

痛い思いを体感することで、学んでいく。

【勘違いする大人たち】

このことを勘違いしている大人がいる。
『子供が言っても聞かないから、痛い思いをさせて教えているのだ』 と。
躾と称して、大人が子供に手を挙げるのは、ただの『弱い者いじめ』でしかない。

自分が、【言葉や行動で上手に教育できない】ことを棚に上げて、正当化しているだけだ。
子供は大人の言葉を理解している。
行動を逐一見ている。
子は親の鏡である。

力が明らかに違う者同士では学習にならない。
恐怖を覚えて終わりだ。

【強迫観念の植え付け】

私が小さい頃、『10数えるうちにやれよ…1,2,3…』と、よく言われていた。
初めのうちは、10になったら何が起きるのかと、恐怖でしかなく、泣きながら従っていた。
だが、小学校高学年にもなれば、『大したことは起きない』と学習をする。
心の中で『はいはい、今日もこれね』と思っていた。(笑)

驚いたのが、長男に自我が芽生えたころ、夫が同じ事を言い出した。

『は?そんな𠮟り方止めてくれる?脅迫してるだけだから。
強迫観念植え付けてるだけだよ』と諭した覚えがある。

私を実家から救い出してくれた人なだけに、すぐに理解してくれて、
そのあと、二度と言わなかったのが救いだった。

【褒められたい子供】

私も例外なく、褒められたい子供だった。
しかし、現実は厳しい。

近所で一人暮らしをしていた兄が、酔っぱらってコタツで寝てしまい、足をやけどした話しを聞いた。
その2日後、夜中にトイレで起きた私は、母と姉がコタツで寝てしまっていたので、
『やけどしてはいけない』と思ってスイッチを切って、又寝た。
翌朝、起きたら『寒くて起きたわ、風引かせる気?』と、叱られた。

また、ある日はこんな事があった。
幼稚園の遠足の写真を『一緒に写ってるから』と、友達のお母さんがくれた。
母は、焼き増ししてくれたお礼にと、100円を遊びに行く私に持たせ、渡すように言った。
でも、友達のお母さんはどうしても受け取ってくれない。
困っているところに、いつも車で野菜や果物を売りに来るおじさんが来た。
『そうだ!さっきのお金で、みんなにみかんを買ってあげよう。そうすれば、友達も喜ぶし、お金も無駄にならなくて済む』
と考えた私は、渡すはずだった友達の家に行き、『このお金で、みんなにみかんを買っても良いか』と聞いてみた。
快くOKしてくれたので、みんなでみかんを食べた。
おじさんも、笑顔で100円では買えないほどの、みかんをくれた。

ここまでは楽しかった思い出なのだが、次の日、幼稚園の送迎バスを待っている間、その話題でもちきりになった。
『この子は神童かもしれない』『天才なのかも』と他の親に褒められ、浮かれていた。
しかし、幼稚園から帰ったとき、母に『人にあげたお金を勝手に使うとは何事か。恥ずかしい』と叱られた。

半世紀が過ぎた今も、はっきり私の中に残っている、ということは、かなりショックだったのだと思う。

【ヤンママ・ブーム到来】

ヤンママサークルがメディアに取り上げられ、『PMJ 倶楽部』代表として、私もテレビなどに出ていた頃、
酔っぱらっていた兄に『恥ずかしくて妹だなんて言えない』と言われたことがある。
酔っぱらっていたとしても、ショックだった。
いや、酔っぱらってる時の方が本音なんだろう、とさえ思った。

『人のためになろう』と、いくら努力しても、家族は理解してくれなかった。

その数年後、私は遠くの地に子供とともに引っ越した。

さらに数年後、母が亡くなり初めて帰省したとき、兄は、葬儀では見せなかった涙を流して謝ってくれた。
『あのときはゴメンな』と。
それだけが救いだったし、私も『今の夫と幸せに暮らしているから、もう大丈夫だよ』と返した。

しかし、実家を離れる時、私はひどく疲れていた。
それは、兄ではなく、姉が原因だった。

この1年後、姉とのメールのやりとりが原因で、私は兄弟と縁を切る決心をする。

その話は、次の記事で。

【次回予告】
第3話『私がいじめられた経験から得たもの』

に続きます。

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【私がPMJ倶楽部を作ったワケ①・全3話】タニシの人生シリーズ~若いママの孤立をなくしたくて始めた家族ぐるみの子育て~

この記事は、私が若い頃に立ち上げた、『PMJ 倶楽部』という育児サークルの記録です。
あれから、時代は変わりました。でも、子供たちの未来を思う気持ちは、今も同じです。
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【PMJ倶楽部とは】

発足 : 1992年
名前 : PaPa、MaMa、Jr.の頭文字。
活動拠点 : 神奈川県横浜市を中心に関東地方全体
メンバー : 最大15家族(48名)

『公園などで他のママたちと馴染めず、孤立しがちな、若いママをサポートするため発足。』

特徴 : 16歳~23歳(私の一つ上まで…笑)のママを、育児雑誌で募集。
家族ぐるみの付き合いを重視していた為、パパも参加できる家族に限定。
『子供たちが兄弟のように育つように、親同士が仲良くすること』を目標に、賛同した家族が参加。

第1話 『私がPMJ倶楽部を作ったワケ』

【子育てとは?】

子供を産んでから、専業主婦だった私。
結婚して3年、2人目の子が生まれて幸せだった。
そして、とてもヒマだった(笑)

家事を終えて、子供たちがお昼寝の時間、物思いにふける時間があり余っていた。

『この子たちが幸せになるには、どうしたら良いんだろう?』

欲を言えばキリがないのは分っているし、お金は最低限あれば良い。
過去のジリ貧生活(別記事予定)で、学んだ。

住む家もあって、家庭も安定していて、大きくなったら普通に就職して、恋愛もして…
そう考えていたら、『どこがゴール?』と不思議な感じがした。

『そっか、最期が幸せだったら、それで良いのか。終わり良ければすべて良し。』

それからの私の最終目標は『最期に笑っていられる、人生を歩く』 になった。
しかし…『最期に笑っていられる』ためには、どうしたら良いんだろう?

この先は、私が実際にした経験をもとに、感じたこと、思ったことを書いています。
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【子供の喧嘩】

ある日、団地の中庭から子供の騒ぐ声がした。
4~5人いたが、知らない顔だった。この辺りの子たちではないみたいだ。
部屋から様子をみていると、一人の子が馬乗りになられて、苦しがっていた。
他の子は周りで面白がっている。
『遊んでいるだけ?でも、もし手加減を知らない子だったら、何かあったときにはもう遅い。』
そう思った私は外に向かって『何してるの!!』と叫んだ。
見事に蜘蛛の子を散らすように、子供たちは消えて行った。

【手加減を知らない子供たち】

その頃、ちょうど話題になっていた事件がある。
駅前で騒いでいた若者に注意した、新聞記者の男性が返り討ちにあい、亡くなった。
その現場は私が当時の夫と出会った場所。
仲間もたくさんいて、居心地の良い場所だった。
民家が少ないとはいえ、周辺の住民の方には大変ご迷惑をかけていたと思うが、
行き場のない若者が見つけた天国だった。

初めの頃は、車好きが集まっているだけで、大人もいたし、みんな仲が良かった。
でも、その場所が有名になるにつれ、怪しい人物も増えていった。
危険を感じるようになった私たちは、そこに集うことをやめ、お互いの家で遊ぶようになっていた。
すっかり、静かになったのだと思っていたが、事件をテレビで見て知った。

このニュースを見たとき、私はふと思い出した。
昔と今の『子供たちの違い』だ。

【昭和生まれの子供たち】

私がその場所へ通っていた頃は、小競り合いもあったが、みんなが限度を知っていた。
『これ以上やってはいけない』という暗黙のルールがあったと思う。
それは、自分たちが小さい頃に痛い目を見ていたからだろう。

悪いことをすれば、げんこつが降ってくる。
近所に子供も、兄弟も多く、喧嘩した経験もある。
子供は外で遊び、ケガもする。
痛みを知っているから、叱る側も素手だった。
痛み分けである。
だから子供たちは納得できたのだと思う。

それが、自分は痛くないように、道具を使って怒る大人が増え始めた。
そんなズルい大人の言うことなど、子供は納得しないだろう。
納得しないどころか、『武器を使えば自分は痛くない』という学習をしてしまう。

悪いことに、子供が減り、兄弟喧嘩をしたことがない子供も増えた。
子供が減れば、その分、親の目も届きやすくなり、子供同士のケンカも減った。
痛みの想像ができなければ限度がわからない。

いざ、腹が立って相手と喧嘩になったとき、手を出さずに済む人間がどれだけいるだろうか。
そう考えた時、私にでも出来ると思ったのは、子供たちに兄弟のような存在を作ってあげることだった。

【次回予告】

第2話『理解されない子供と勘違いする大人

に続きます。

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