【私がPMJ倶楽部を作ったワケ③・全3話】タニシの人生シリーズ~若いママの孤立をなくしたくて始めた家族ぐるみの子育て~

【大切な子供や孫が生きていく世界は、今の私たちが創っている】
このことが、私の責任感を駆り立てる要因なのだと思う。
いつでも人は、昔は良かった…という。
子供や、孫たちにも、そう言わせてあげたいものです。

この先は、私が実際にした経験をもとに、感じたこと、思ったことを書いています。
読んでいて、辛くなってしまう方がいたら、ごめんなさいm(__)m
途中で離脱してくださいね。

第3話『私がいじめられた経験から得たもの』

【勝手に切り取るメディア】

兄が、恥ずかしいと言ったのも理解できる。
私の言う、ヤングママではなく、ヤンキーママの方が、圧倒的に話題になるからだ。

PMJ倶楽部のメンバーに金髪の子はいなかったし、たまたま若いうちに子供を授かっただけ。
メディアからの出演依頼にも、PMJ倶楽部の趣旨をきちんと伝えてくれるモノにしか出なかった。
それでも、『ヤンママ』は独り歩きを始めてしまった。

ただ、今みたいなネット社会ではなかった分、まだマシだったのかもしれない。
もし、あの時、プライバシーがネットに晒されていたら…と思うとゾッとする。

生放送のラジオに出演した時、局の手違いで私の家の電話番号が電波に流れた。
すぐに、電話回線を止めたが、翌日に復旧させても、問題なかったくらいだから(笑)

【いじめられた経験から得たもの】


わたしは、幼い頃から泣かされる側だった。今では想像できないくらい(笑)
記憶の最初は、2~3歳の頃、1つ年下の従妹だった。

母に『年上なんだから我慢しなさい』と言われ、
従妹にやられ放題で、よく泣かされていた。

幼稚園でも、揶揄しやすい苗字と名前のせいで、ずっと男の子に泣かされていた。
小学校に上がっても、夏休み明けの『日焼けコンテスト』で上位に入ると、あだ名が差別用語になった。

3年生の時、我慢の限界で、給食の途中で家に泣きながら帰った。
先生に連れてこられたいじめっ子は、その場では謝ったものの、
次の日からは、私の家が古かった事をネタに、いじめが続いた。

【人生の転機】

4年生の時、天の助けか、いじめっ子の住む地域と学区が分かれることになり、顔を合わせずに済むようになった。
そのクラス替えで、担任やクラスメイトに恵まれ、やっと、学校でのいじめからは解放された。
その担任から、大人から初めて本気で褒められた、という記憶がある。
きっと、初めてではないと思うが(笑)

その先生のおかげで、前向きになれたのが大きかった。
イジメられない為には、面白い子になれば良いんだ!という学習をする(笑)

中学に入ると、4学区が集まり、あのイジメっ子と再会した。
でも、もう怖くなかった。
離れていた3年の時間が、わたしを強くしてくれたのだと思った。

私をいじめていた彼は、なぜかイジメられる側になっていた。
でも私は、仕返しをするのではなく、他の子とおなじように接するように心掛けた。
同情していたのかもしれないが、自分が嫌だったことは、他人にしたくなかった。

中学で陸上部、野球部マネージャーを経験し、楽しかった…

のも、つかの間(笑)
3年で転校した学校で、史上最悪のイジメを経験することになる。

【次回予告】

【環境が人を変える】タニシの子育てシリーズ
~いじめられてる私が同情する、いじめっこ達~
『3年女子全員が敵になったのは誰のせい?』   です。

お楽しみに🎵

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【私がPMJ倶楽部を作ったワケ②・全3話】タニシの人生シリーズ~若いママの孤立をなくしたくて始めた家族ぐるみの子育て~

夕焼け空の下、仲間と一緒に過ごす子どもたちのシルエット写真

この記事は、私が若い頃に立ち上げた、育児サークル『PMJ倶楽部』の記録です。
あれから、時代は変わりました。でも、子供たちの未来を思う気持ちは、今も同じです。
誰かの、何かの、きっかけになってくれたら、嬉しいです。

この先は、私が実際にした経験をもとに、感じたこと、思ったことを書いています。
読んでいて、辛くなってしまう方がいたら、ごめんなさいm(__)m
途中で離脱してくださいね。

『第2話 理解されない子供と勘違いする大人

サークルの子供たちを見ていて感じたこと~自我の芽生え

子供たち(およそ1歳~)はオモチャの奪い合いを必ずする。
それは、本能として備わっているのだろうか?
動物の優位争いに似ていると感じた。

大して興味の無いオモチャでも、その子に力を見せつけるかのように奪う。
泣いたら負けだ。
そのやりとりで『力関係』が決まる。
群れをつくる動物が、ボスを決めるように。

その時に、大人は手出しをせず見守ることが大切だと感じた。
へたに叱ろうものなら、その子は親の見えない所で、隠れて弱い子をいじめるようになってしまう。
決着がついたら、そこで初めて、両者の親が弱者をいたわる様子をみせる。
(決着とは、片方が泣いたり、逃げた時)
そうすることで、親を取られたような気がするのか、泣き出す強者もいれば、一緒に弱者をいたわる強者もいる。

このやり取りを何度も見ているうちに、
私は「親の役目」が少しずつ分かってきた。

【親の役目】

バトルが始まった時に大事なのは、このルール。
・武器を持たせない事。
・必ず、大人が子供を見守っている事。
・そして、途中で親が止めに入らない事。
・決着がついたら、弱者をいたわる事。
・弱者をいたわる時に、強者を悪者にしない事。

これを徹底していると、自然と仲良く遊びだすから不思議だ。
強者は弱者をかばい、弱者は強者を敬い、後を追う。

言っておかなければならないが、この話しは安易な差別ではなく、
千差万別な人間同士、どうしても避けられない力の差がある。
それをどう上手く、仲よく生きていこうかと、世に出たばかりの人間が学んでいる現実だ。
世の中の仕組みを子供が体現しているのだと思う。

なるべくこの体験を、ちからが弱いうちに経験させないと、後でとんでもないことになる。
遊びを知らずに大人になった者が、いい年をして遊びに狂ってしまうのと同じだ。
第二次反抗期や、大人になってから親に手を挙げてみたり、暴力事件を起こしたり。
その頃にはもう、親は『ちから』では子供に敵わない。

だから小さく、力の弱いうちに、ちから加減を教える。また、他者をいたわる事を教える。

【叩かれたら痛い】

【髪を引っ張られると、こんなに痛い】

痛い思いを体感することで、学んでいく。

【勘違いする大人たち】

このことを勘違いしている大人がいる。
『子供が言っても聞かないから、痛い思いをさせて教えているのだ』 と。
躾と称して、大人が子供に手を挙げるのは、ただの『弱い者いじめ』でしかない。

自分が、【言葉や行動で上手に教育できない】ことを棚に上げて、正当化しているだけだ。
子供は大人の言葉を理解している。
行動を逐一見ている。
子は親の鏡である。

力が明らかに違う者同士では学習にならない。
恐怖を覚えて終わりだ。

【強迫観念の植え付け】

私が小さい頃、『10数えるうちにやれよ…1,2,3…』と、よく言われていた。
初めのうちは、10になったら何が起きるのかと、恐怖でしかなく、泣きながら従っていた。
だが、小学校高学年にもなれば、『大したことは起きない』と学習をする。
心の中で『はいはい、今日もこれね』と思っていた。(笑)

驚いたのが、長男に自我が芽生えたころ、夫が同じ事を言い出した。

『は?そんな𠮟り方止めてくれる?脅迫してるだけだから。
強迫観念植え付けてるだけだよ』と諭した覚えがある。

私を実家から救い出してくれた人なだけに、すぐに理解してくれて、
そのあと、二度と言わなかったのが救いだった。

【褒められたい子供】

私も例外なく、褒められたい子供だった。
しかし、現実は厳しい。

近所で一人暮らしをしていた兄が、酔っぱらってコタツで寝てしまい、足をやけどした話しを聞いた。
その2日後、夜中にトイレで起きた私は、母と姉がコタツで寝てしまっていたので、
『やけどしてはいけない』と思ってスイッチを切って、又寝た。
翌朝、起きたら『寒くて起きたわ、風引かせる気?』と、叱られた。

また、ある日はこんな事があった。
幼稚園の遠足の写真を『一緒に写ってるから』と、友達のお母さんがくれた。
母は、焼き増ししてくれたお礼にと、100円を遊びに行く私に持たせ、渡すように言った。
でも、友達のお母さんはどうしても受け取ってくれない。
困っているところに、いつも車で野菜や果物を売りに来るおじさんが来た。
『そうだ!さっきのお金で、みんなにみかんを買ってあげよう。そうすれば、友達も喜ぶし、お金も無駄にならなくて済む』
と考えた私は、渡すはずだった友達の家に行き、『このお金で、みんなにみかんを買っても良いか』と聞いてみた。
快くOKしてくれたので、みんなでみかんを食べた。
おじさんも、笑顔で100円では買えないほどの、みかんをくれた。

ここまでは楽しかった思い出なのだが、次の日、幼稚園の送迎バスを待っている間、その話題でもちきりになった。
『この子は神童かもしれない』『天才なのかも』と他の親に褒められ、浮かれていた。
しかし、幼稚園から帰ったとき、母に『人にあげたお金を勝手に使うとは何事か。恥ずかしい』と叱られた。

半世紀が過ぎた今も、はっきり私の中に残っている、ということは、かなりショックだったのだと思う。

【ヤンママ・ブーム到来】

ヤンママサークルがメディアに取り上げられ、『PMJ 倶楽部』代表として、私もテレビなどに出ていた頃、
酔っぱらっていた兄に『恥ずかしくて妹だなんて言えない』と言われたことがある。
酔っぱらっていたとしても、ショックだった。
いや、酔っぱらってる時の方が本音なんだろう、とさえ思った。

『人のためになろう』と、いくら努力しても、家族は理解してくれなかった。

その数年後、私は遠くの地に子供とともに引っ越した。

さらに数年後、母が亡くなり初めて帰省したとき、兄は、葬儀では見せなかった涙を流して謝ってくれた。
『あのときはゴメンな』と。
それだけが救いだったし、私も『今の夫と幸せに暮らしているから、もう大丈夫だよ』と返した。

しかし、実家を離れる時、私はひどく疲れていた。
それは、兄ではなく、姉が原因だった。

この1年後、姉とのメールのやりとりが原因で、私は兄弟と縁を切る決心をする。

その話は、次の記事で。

【次回予告】
第3話『私がいじめられた経験から得たもの』

に続きます。

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【私がPMJ倶楽部を作ったワケ①・全3話】タニシの人生シリーズ~若いママの孤立をなくしたくて始めた家族ぐるみの子育て~

この記事は、私が若い頃に立ち上げた、『PMJ 倶楽部』という育児サークルの記録です。
あれから、時代は変わりました。でも、子供たちの未来を思う気持ちは、今も同じです。
誰かの、何かの、きっかけになってくれたら、嬉しいです。


【PMJ倶楽部とは】

発足 : 1992年
名前 : PaPa、MaMa、Jr.の頭文字。
活動拠点 : 神奈川県横浜市を中心に関東地方全体
メンバー : 最大15家族(48名)

『公園などで他のママたちと馴染めず、孤立しがちな、若いママをサポートするため発足。』

特徴 : 16歳~23歳(私の一つ上まで…笑)のママを、育児雑誌で募集。
家族ぐるみの付き合いを重視していた為、パパも参加できる家族に限定。
『子供たちが兄弟のように育つように、親同士が仲良くすること』を目標に、賛同した家族が参加。

第1話 『私がPMJ倶楽部を作ったワケ』

【子育てとは?】

子供を産んでから、専業主婦だった私。
結婚して3年、2人目の子が生まれて幸せだった。
そして、とてもヒマだった(笑)

家事を終えて、子供たちがお昼寝の時間、物思いにふける時間があり余っていた。

『この子たちが幸せになるには、どうしたら良いんだろう?』

欲を言えばキリがないのは分っているし、お金は最低限あれば良い。
過去のジリ貧生活(別記事予定)で、学んだ。

住む家もあって、家庭も安定していて、大きくなったら普通に就職して、恋愛もして…
そう考えていたら、『どこがゴール?』と不思議な感じがした。

『そっか、最期が幸せだったら、それで良いのか。終わり良ければすべて良し。』

それからの私の最終目標は『最期に笑っていられる、人生を歩く』 になった。
しかし…『最期に笑っていられる』ためには、どうしたら良いんだろう?

この先は、私が実際にした経験をもとに、感じたこと、思ったことを書いています。
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【子供の喧嘩】

ある日、団地の中庭から子供の騒ぐ声がした。
4~5人いたが、知らない顔だった。この辺りの子たちではないみたいだ。
部屋から様子をみていると、一人の子が馬乗りになられて、苦しがっていた。
他の子は周りで面白がっている。
『遊んでいるだけ?でも、もし手加減を知らない子だったら、何かあったときにはもう遅い。』
そう思った私は外に向かって『何してるの!!』と叫んだ。
見事に蜘蛛の子を散らすように、子供たちは消えて行った。

【手加減を知らない子供たち】

その頃、ちょうど話題になっていた事件がある。
駅前で騒いでいた若者に注意した、新聞記者の男性が返り討ちにあい、亡くなった。
その現場は私が当時の夫と出会った場所。
仲間もたくさんいて、居心地の良い場所だった。
民家が少ないとはいえ、周辺の住民の方には大変ご迷惑をかけていたと思うが、
行き場のない若者が見つけた天国だった。

初めの頃は、車好きが集まっているだけで、大人もいたし、みんな仲が良かった。
でも、その場所が有名になるにつれ、怪しい人物も増えていった。
危険を感じるようになった私たちは、そこに集うことをやめ、お互いの家で遊ぶようになっていた。
すっかり、静かになったのだと思っていたが、事件をテレビで見て知った。

このニュースを見たとき、私はふと思い出した。
昔と今の『子供たちの違い』だ。

【昭和生まれの子供たち】

私がその場所へ通っていた頃は、小競り合いもあったが、みんなが限度を知っていた。
『これ以上やってはいけない』という暗黙のルールがあったと思う。
それは、自分たちが小さい頃に痛い目を見ていたからだろう。

悪いことをすれば、げんこつが降ってくる。
近所に子供も、兄弟も多く、喧嘩した経験もある。
子供は外で遊び、ケガもする。
痛みを知っているから、叱る側も素手だった。
痛み分けである。
だから子供たちは納得できたのだと思う。

それが、自分は痛くないように、道具を使って怒る大人が増え始めた。
そんなズルい大人の言うことなど、子供は納得しないだろう。
納得しないどころか、『武器を使えば自分は痛くない』という学習をしてしまう。

悪いことに、子供が減り、兄弟喧嘩をしたことがない子供も増えた。
子供が減れば、その分、親の目も届きやすくなり、子供同士のケンカも減った。
痛みの想像ができなければ限度がわからない。

いざ、腹が立って相手と喧嘩になったとき、手を出さずに済む人間がどれだけいるだろうか。
そう考えた時、私にでも出来ると思ったのは、子供たちに兄弟のような存在を作ってあげることだった。

【次回予告】

第2話『理解されない子供と勘違いする大人

に続きます。

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【シリーズ・仕事の基本】~掃除が面倒じゃなくなるコツ~『5Sとは?』

職場を掃除しているような人形の写真

5Sとは、製造現場で推奨される、標語のようなモノですが、
わかりやすく、的確に行動できるので、家庭内でもぜひ使ってみてください。


会社によっては、整理・整頓・だけの『2S』だったり、『習慣』も取り入れて、『5プラス1S』というの所もあるようです。


整理

いらない物は、すぐに処分する

分別のゴミ箱を設置、分別を分かりやすくする

必要最低限数の把握

整頓

使ったら、元の場所に返す

定位置管理の徹底 住所表示

異物混入や機械故障の原因になる為、 行方不明な物を放置しない、見つかるまで探す。

清掃

清掃がしやすい配置 床に、直置きしない

当番制、定期的な清掃をする時間・手順を決める。

清潔

綺麗な状態を維持する

身だしなみチェック 清掃がしやすい環境作り

反、割れ窓理論(下記参照)

掃除は見栄えだけでなく、 安全性や、機械のメンテナンスも兼ねている。

後回しにせず、すぐやる習慣づけ。

割れ窓理論とは?
たくさん並んでいる窓ガラスのうち、1枚が割られた状態(小さな無秩序)で放置(無関心)しておくと、 それに誘発され、次第に他の窓も割られるなど、犯罪がエスカレートしていく様子。 小さな無秩序を放置することなく、すぐに直すことで、モラルの低下防止になり、 ルール無視の抑制にもなる。という防犯理論のこと。
白い布の上にレモンが並んでいる写真

掃除の目的

掃除の目的といえば、皆さんは何を想像するでしょう?

『見栄え』、特に来客の時には丁寧に掃除をするのではないでしょうか?

ウチの長男が小さい頃、私が掃除を始めると、 目をキラキラさせて、『誰かくるの?』と聞いてきたくらいです(笑)

きっと、ほとんどの方が、見た目が綺麗になるように掃除をすると思います。

もちろん、それも大事なんですが、他にもっと大切な目的があることをご存じですか?

身の安全

つまずいて転んだり、物を踏んでケガをしない為。

アレルギー対策でハウスダストや花粉の除去。

これらは、完全に身を守る為ですよね?

メンテナンス

品質の保持(劣化を防ぐ)

通常時の把握と異常の早期発見

本来の目的がわかったところで、あなたの身の回りに当てはめてみてくださいね。

通り道にモノが落ちていないか、ガスコンロの回りを掃除しながら、ガスの元栓周辺に異常がないか、など。

ソファーの上で自分の体を掃除する舌を出す猫の写真

タニシの掃除コンプレックス

私も掃除が苦手でした

子供のころは、母から耳にタコができるほど、言われたものです。

『掃除をしなさい!』

『片づけなさい!』

『片づけないなら捨てちゃうよ!』

そう毎日言われても、実のところ、やり方がわからない。(笑)

これは、『何から手をつけて良いのかわからない』にも通じると思います。

実家を出て、自分で部屋を借りるようになって初めて

『掃除』というものに本気で向き合った気がします。

まぁ、母に甘えていたんでしょうね(笑)


綺麗に整理整頓されているガスコンロまわりの写真

整理・整頓(片づけの基本)

~目的からさかのぼってみる~

1、理想の状態と今の状態を比較してみる

→なんと、すぐには使わないものが散乱しているかを実感。(笑)

片づける前の写真を撮っておくと、ビフォー&アフターがわかり、モチベアップ!

2、その、すぐには使わないものは、次にいつ使うかを考える。

→『いつか…』は却下します(笑)

具体的な予定が無いものは、処分候補にします。

3、使う予定や頻度から、しまう場所(住所)を決める

→シンデレラフィットを目指さない。

いつのまにか掃除から脱線してしまって戻れなくなる(笑)

4、その場所(住所)を忘れない為に、表札をつける

→テプラや、マスキングテープなどの有効活用。


清掃・清潔(掃除の基本)

~目の前のモノからはじめる~

1、まずは、いらないモノを『ゴミ』と認識する所から

→意外と認識できていない人が多い。『これは何?』から始めましょ。

2、その『ゴミ』の行先を考える(分別)

→地域指定の捨て方や、フリマアプリ、回収業者など 。

3、家出しているモノは家に帰す。

→捜索願いが出ていませんか?うちは、耳かきや爪切りがよく家出します(笑)

4、上から順番に掃除をする。

→重力には勝てないので、二度手間防止。外なら風上からスタート。


躾・習慣(維持する為の基本)

~後回しにしない~

1、気づいたら、ついでにやる

→これが最も効率の良い方法だと思う

2、定期的に掃除の日を決める

→ずるずると、散らかっていくのを防ぐ

3、なるべく短時間で終わらせる

→他のことに影響するほど時間をかけると、次回のモチベーションが下がる

赤ちゃんと犬が絨毯の上に腹ばいになっている写真

家族がいる場合

4、家族で掃除のやり方・分担・方針を決めておく

→いきなり言われても、お互いストレスになるだけなので、前もって話し合っておく

5、ゲーム化する

→家族で速さを競争してみたり、ミッションを点数化して、月ごとの点数を争う。ご褒美あり?

レストランの床をお掃除ロボットが綺麗にしている写真

まとめ

~掃除への向き合い方~義務から「自分のため」へ

全人類にアンケートを取ったら、きっと『面倒くさいこと No1』になるのではないかと思う掃除。

他人が嫌がる掃除を、お仕事にされている方々には本当に頭が下がりますし、

身近に清掃員さんがいればぜひ感謝を伝えたいものです。

最近では店舗などでも、お掃除ロボットが普及してきましたが、

異常の発見やメンテナンスなど、人にしかできない事が、まだまだたくさんあります。

一方で、子供が小さかったり、子供のような大人(笑)がいる家庭では、

完璧を求めすぎず、

『多少、散らかってても目をつぶる』

という開き直りが、必要な時もあるでしょう。

我が家もそうでした(笑)

ずっと散らかったままでは健康や安全に心配はありますが、無理をしすぎるのも禁物です。

大切なのは、掃除に対する「心の持ち方」です。

私は毎朝、誰に指示されたわけでもなく、自分の職場を掃除しています。

もしこれが、

「誰もやらないから仕方なくやってあげている」

という意識なら、 不平不満が出て、つい見返りを求めてしまうでしょう。

でも、

「自分のために掃除をする」

と考えれば、恩着せがましい気持ちにはなりません。

むしろ自分が清々しく、気持ちよく仕事に入れるようになります。

そうなんです!こだわりの強かったタニシが、

「綺麗にしたい自分&居心地の良い綺麗な場所にいたい自分」

を見つけたんです!!

掃除は義務ではなく、 私自身のこだわりを形にする大切な習慣となりました。

〘次回予告〙

【仕事の効率化】~定時で帰るための勝負所~
仕事の優先順位とは?』です

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【シリーズ・タニシの生き方】『タニシの生い立ち』~15歳で社会に出た私が学んだ「子どもの居場所」の大切さ~

海深く沈んでいるような巻貝の写真

この文章は、15歳で社会に出た私の生い立ちの話です。
家庭の中で居場所がないと感じていた子どもが、どのようにして働く力と生きる力を身につけていったのかを書いています。


最期の会話

中学3年の冬、就職先から採用通知が届いたその日、入院中だった父と、

ずっと付き添っていた母に報告に行った。

父は胃潰瘍だと言われ手術を受けたが、その後、昼食後に倒れてからは

入退院を繰り返していた。

『店をもつ気でやれよ』という父に、『うん』と言ったのが、父との最期の会話になった。

翌月には昏睡状態になり、1か月もしないうちに亡くなったのだ。

雪に覆われながらも開花する木

他人の家

兄弟の中でも一番の父親っ子だった私は、小学校へ上がるまでは父の膝の上を独占していた。

5歳の時、妹がお腹の中にいた母のつわりがひどかった。

バス通園だった幼稚園の近くに住む、父の妹の家へ2か月ほど預けられた。

伯母の家には小6・小3・3歳の仲の良い姉妹がいて、たくさん遊んでくれた。

しかし、朝5時に起きて家族でジョギングしたり、おもちゃは小さな部品ひとつ残らず片づけたり(こっちが普通なのか?)

とにかく環境が違いすぎて、戸惑っていた。


初日の晩、お風呂上りに牛乳を飲んでいたら、伯母に

『他人の家の冷蔵庫を勝手に開けちゃダメじゃないの!!』

と叱責され、泣いた。

『さっき、自分の家だと思ってねって言ってたのに・・・』 

子供ながらに考えていることは、大人には伝わらないものらしい。

伯母は躾として言ってくれたのだろうが、5歳児にはショックでしかなかった。

それでも家に帰れる訳ではなく、大人しく良い子にしていよう、と決意する。

伯母は精神的に不安定だったのか、謎の宗教の集まりに、よく末っ子とともに連れていかれた。

それが原因なのか、母はこの伯母を毛嫌いしていて、この後も交流があったのは、父と私だけ。

家を新築した伯母一家がそこへ越してからは、私も遊びに行くことはなくなった。

無事、妹が生まれて

不思議なことに、ここから半年くらいの記憶がない。

家に帰れる、とか、妹との初対面など、イベントはたくさんあったハズなのに、記憶に残っていない。謎だ。

この後、妹をオモチャにしている兄と姉の姿はよく覚えているが。

我が家は、縦社会な上に、悪ふざけが過ぎる。それでも年下は黙って我慢するしかなかった。

のちに母の葬儀後のお酒の席で、

『みんな世間は冷たいって言うけど、ウチより全然優しいよ!だって世間の人は私の事ブサイクって言わないもん!!』

と、衝撃の発言をした妹。

お互いに子を持つ親になって、少しは発言権を得たのか。

私はそれでも、何も言えずにいたけれど・・・。


妹の誕生から2年、弟が生まれた

その頃には、父が家に帰ってこない日が増え、いない事が普通になっていた。

ある日の夜中、一人で寝ていた私は、誰かの気配で目を覚ます。

父が私の布団に入り込んでいて、私が目を覚ましたのに気づくと、

『お母さん、赤ちゃん生まれたんだって。一緒に見に行く?』

と、言った。 何て他人事・・・

どこにいても父は父

家に帰ってこなくなった父の、住んでいる家を探した。

当時7歳。ヒントは黒電話の横にある、母が書いた住所録。

色んな飲み屋の名前があったが、一軒だけ聞いた事のない店で、住所が隣の駅だ。

直感的に、ここだと思った。

次の日曜日、友達を誘い、探検の旅にでた。

住所を見ながらウロウロすること約3時間。

やっと同じ名前の看板を見つけた。

店の前で、濡れた髪を乾かそうとクルクル回っているおばさんがいた。

『楽しそうだ。この人に聞いてみよう。』

父の名を告げると、その人は中に向かって『マスターちょっと来て!』と叫んだ。

父が驚いて立っていた。

それからは母に内緒でよく遊びに行っていた。

赤ちゃんを膝に乗せ絵本を読み聞かせる父親

父は、昼間は小さな会社を経営、夜は知らない女性と居酒屋を営んでいた。

その女性の優しさに甘えることができた私は、学校帰りに一駅分歩いたり、日曜日にはバスで遊びに行っていた。

今考えれば、愛する男性の子供を邪険にできる訳がない。。。向こうも困っていたと思う。

姉の自転車を勝手に借りて行った時には、父から連絡が行き、ずいぶん母と姉に叱られた。

7つ上の姉はもうすでに女として、父が許せなかったんだろう。ずっと母の味方だった。

ことある毎に嫌味を言い、空気はいつもピリピリしていた。

家の中に私の居場所は無かった。

父はそれを知ってか知らずか、夏休みに、私と妹を連れてキャンプや旅行に出かけ、

毎年、正月には、おもちゃ屋で好きな物を買ってくれる『あしながおじさん』のような存在だった。

それも母には面白くないようで、

『たまに顔出して優しくしてれば良いんだから、得だよね~』

と後で言っていた。確かに子供を騙すのは簡単だ。

父との亀裂、反抗期の始まり

そんな父と私の関係も、小学校を卒業する頃から私の反抗期で終わりを迎える。

(あ!姉も反抗期だったのかもしれない。。。)

父びいきの私には、実家に居場所がなく、家出をしたり、夜遅くまで溜まり場で騒いで補導されたり・・・

いつもは母が迎えに来て、無言で歩いて帰るのが定番だったが、

ある日、初めて迎えに来た父は、感情を抑えることができず、私に手を挙げた。

その時、私は『終わった~』と感じた。

『自分は好き勝手してるのに??』 と思った私は素直に謝る気にもならない。

体の痛みよりも、心が壊れていくのを感じていた。

夕暮れの土手を自転車を押して歩く女の子

父と末っ子

その事件をきっかけに引っ越しの話しが進み、中学を転校することに。

父は、新居で『これを機に、家に帰ろうと思う・・・』と言っていた。

内心、『何を今さら。でも、これで少しは私の居場所ができるかも』と期待していたが、

実現する前に、父は病魔に襲われてしまった。


8歳下の弟が、生まれて初めて父とお風呂に入ったとき、その背中脇には約30cmの手術痕があった。

弟に『すごいだろ~』と自慢していたのを見て『アホか』と思ったのだが、

その日は嬉しそうにしている弟の為に、黙って自分の部屋に戻った。

別居はしていたものの、月に一度は生活費を持参していた父に、

弟は『また来てね~』と手を振るのが習慣だった。

慣れない父親との、唯一のスキンシップ。

まさか、その半年後に父の葬儀をする事になるとは・・・

この日、弟たちと昼食を食べた父が急に苦しみだし、床を転げまわって痛みに耐えていた。

『救急車を呼ぶな!兄貴を呼んでくれ!』

病院の近くに住む叔父を呼ぶように、母に指示していた姿が目に焼き付いている。。。

その後、父は入退院を繰り返していたようだ。

採用通知が届いたのは、その4か月後の出来事だった。

お経の罪深さ

お通夜で読経してもらっている時に気付いたのだが、お経には『亡くなった原因』を盛り込む?ようで、

その時初めて父が『胃がん』だったのだと知った。

どうやら知らされていなかったのは、私と、幼い妹・弟だけで、

父に告知をしていなかった事もあり、秘密にしていたようだ。

『もし知っていたら、もっとお見舞いに行ったのに。謝ることもできたのに。』

・・・ここでも疎外感を味わった時、もう誰とも話しができなくなってしまっていた。

思ったことが、言葉として出てこない。クラスメイトも、腫れ物に触るようになり、孤立した。

あいかわらず、家では誰とも口をきかず、ただ毎日息をしているだけだった。

『もうすぐ、こんな毎日から脱出できる。もう少しの我慢だ。』

と自分に言い聞かせながら、中学卒業の日を迎える。

天国かと思っていた就職が地獄だった件

4月3日・・・いよいよ入寮の日。

姉と、当時姉が付き合っていた彼の車で、荷物を運んでもらった。

父が亡くなってからの姉は優しく、私と友達をデイズニーランドに連れていってくれたりもした。

おそらく、彼氏が良い人だったんだろう。結婚するものと思っていたが、別れてしまったようだ。

大きなお世話だが、とても残念だ。


寮に着き、荷物を部屋に運ぶのも手伝ってくれた。


4人部屋の室長、26歳の先輩に姉が挨拶をしてくれた。

さすが社会人!と感心していたが。。。

姉を見送るとき、『あの人、信じらんないくらい、化粧濃いね。』と先輩をディスっていた。

『そぉ?』と返すと、

『そんなことも分からないの??バカじゃないの??』

・・・そんな人だった事を、改めて思い出した。

🐚『仕事を辞めたくなった時』に続く🐚


それでもタニシは生きていく

大切な父を失い、 15歳から社会へ飛び込んだ私。

けれど、この“地獄のスタート”が 私の人生のタフさを作った。

仕事は甘くなかった。 人間関係は厳しかった。

だけど、そこで私は “空気を読む力”を磨き、

“どこでも働ける適応力”を手に入れ、 仕事のスピードも自然と身についた。

27社を経験することになるなんて この時は想像もしなかったけれど、 このときの苦労は、 確実に私の土台になっている。

父がくれた最後の言葉。

『店をもつ気でやれよ』

あの言葉は、 “自分の人生は自分で切り拓け” というメッセージだったのかもしれない。

父がどう生き、 どう私を愛していたのかは、 今でも正解が分からない。

でも、父がいたから 私は産まれたし、 父が背負っていた弱さも強さも ぜんぶ私の中に受け継がれている気がする。

私の人生は簡単じゃなかったし、 楽でもなかった。

だけど、いま私は 子どもを育て、 孫を見守り、 そしてこうして文章を書き、 誰かの心に寄り添えるようになっている。

悲しい出来事があったとしても、 人はちゃんと前に進める。

あの頃の私に言ってあげたい。

――大丈夫だよ。

――あなたはちゃんと生き抜ける。

――そして、幸せになる。

今の私は、紛れもなく あの頃の私が “必死で生きてきた結果”だ。

だから胸を張って言える。

私は強い。

でもそれよりもっと、優しい。

―――そして、今日も生きていく。


このお話しは、

『仕事を辞めたくなった時・・・』

         ・・・に続きます。