この記事は、私が若い頃に立ち上げた、『PMJ 倶楽部』という育児サークルの記録です。
あれから、時代は変わりました。でも、子供たちの未来を思う気持ちは、今も同じです。
誰かの、何かの、きっかけになってくれたら、嬉しいです。
【PMJ倶楽部とは】
発足 : 1992年
名前 : PaPa、MaMa、Jr.の頭文字。
活動拠点 : 神奈川県横浜市を中心に関東地方全体
メンバー : 最大15家族(48名)
『公園などで他のママたちと馴染めず、孤立しがちな、若いママをサポートするため発足。』
特徴 : 16歳~23歳(私の一つ上まで…笑)のママを、育児雑誌で募集。
家族ぐるみの付き合いを重視していた為、パパも参加できる家族に限定。
『子供たちが兄弟のように育つように、親同士が仲良くすること』を目標に、賛同した家族が参加。
第1話 『私がPMJ倶楽部を作ったワケ』
【子育てとは?】
子供を産んでから、専業主婦だった私。
結婚して3年、2人目の子が生まれて幸せだった。
そして、とてもヒマだった(笑)
家事を終えて、子供たちがお昼寝の時間、物思いにふける時間があり余っていた。
『この子たちが幸せになるには、どうしたら良いんだろう?』
欲を言えばキリがないのは分っているし、お金は最低限あれば良い。
過去のジリ貧生活(別記事予定)で、学んだ。
住む家もあって、家庭も安定していて、大きくなったら普通に就職して、恋愛もして…
そう考えていたら、『どこがゴール?』と不思議な感じがした。
『そっか、最期が幸せだったら、それで良いのか。終わり良ければすべて良し。』
それからの私の最終目標は『最期に笑っていられる、人生を歩く』 になった。
しかし…『最期に笑っていられる』ためには、どうしたら良いんだろう?
この先は、私が実際にした経験をもとに、感じたこと、思ったことを書いています。
読んでいて、辛くなってしまう方がいたら、ごめんなさいm(__)m
途中で離脱してくださいね。
【子供の喧嘩】
ある日、団地の中庭から子供の騒ぐ声がした。
4~5人いたが、知らない顔だった。この辺りの子たちではないみたいだ。
部屋から様子をみていると、一人の子が馬乗りになられて、苦しがっていた。
他の子は周りで面白がっている。
『遊んでいるだけ?でも、もし手加減を知らない子だったら、何かあったときにはもう遅い。』
そう思った私は外に向かって『何してるの!!』と叫んだ。
見事に蜘蛛の子を散らすように、子供たちは消えて行った。
【手加減を知らない子供たち】
その頃、ちょうど話題になっていた事件がある。
駅前で騒いでいた若者に注意した、新聞記者の男性が返り討ちにあい、亡くなった。
その現場は私が当時の夫と出会った場所。
仲間もたくさんいて、居心地の良い場所だった。
民家が少ないとはいえ、周辺の住民の方には大変ご迷惑をかけていたと思うが、
行き場のない若者が見つけた天国だった。
初めの頃は、車好きが集まっているだけで、大人もいたし、みんな仲が良かった。
でも、その場所が有名になるにつれ、怪しい人物も増えていった。
危険を感じるようになった私たちは、そこに集うことをやめ、お互いの家で遊ぶようになっていた。
すっかり、静かになったのだと思っていたが、事件をテレビで見て知った。
このニュースを見たとき、私はふと思い出した。
昔と今の『子供たちの違い』だ。
【昭和生まれの子供たち】
私がその場所へ通っていた頃は、小競り合いもあったが、みんなが限度を知っていた。
『これ以上やってはいけない』という暗黙のルールがあったと思う。
それは、自分たちが小さい頃に痛い目を見ていたからだろう。
悪いことをすれば、げんこつが降ってくる。
近所に子供も、兄弟も多く、喧嘩した経験もある。
子供は外で遊び、ケガもする。
痛みを知っているから、叱る側も素手だった。
痛み分けである。
だから子供たちは納得できたのだと思う。
それが、自分は痛くないように、道具を使って怒る大人が増え始めた。
そんなズルい大人の言うことなど、子供は納得しないだろう。
納得しないどころか、『武器を使えば自分は痛くない』という学習をしてしまう。
悪いことに、子供が減り、兄弟喧嘩をしたことがない子供も増えた。
子供が減れば、その分、親の目も届きやすくなり、子供同士のケンカも減った。
痛みの想像ができなければ限度がわからない。
いざ、腹が立って相手と喧嘩になったとき、手を出さずに済む人間がどれだけいるだろうか。
そう考えた時、私にでも出来ると思ったのは、子供たちに兄弟のような存在を作ってあげることだった。
【次回予告】
第2話『理解されない子供と勘違いする大人』
に続きます。
お楽しみに🎵 See You (*^-^*)

が、お送りしました。
最後まで読んでくださってありがとうございます✨
